どうもこんにちは。
放置気味のこのブログですが、最近思うのは、「まとまった量の文章を書く」ことが少なくなったなァということ。
ブログ自体は中学の頃から始めて、一旦移転したり名前を変えたりしつつも、大学卒業まで続け、就職を機にそちらを畳んで、こちらの「はてなブログ」を改めて始めたわけですが。
まァ、書くことがない。というか、書く気力がない。
時間がないから、というのは言い訳です。自覚しています。休みは世間より少ない仕事だけど、まったく休めないわけではないので、書こうと思えば書けるのです。しかしなぜ書かないのか。
「書く」ことに――もっとハッキリ言えば、「まとまった量の文章を書く」ことに――魅力を感じなくなったのでしょう。
中学生の頃が、書くのが楽しくて仕方がないピークだったように思います。だからブログを始めようなどと考えたわけで。Twitterが先だったらまた話は別だったのでしょうが、「文章を書きたい」という思いと、あわよくばそれを他人に読んでもらって「自己肯定感を得たい」という欲望が、思春期に結実したのがブログだったのです。
思えば、その頃は周りにも結構そういうブログ的なものを始めるやつが何人もいたな。mixiとかね。たいてい数ヶ月で飽きてやめていくのですが、自分の場合は高校に入ってからもそれは続きました。
高校では部活は文芸部に入り、小説を書いていました。……と言っても他の部員が全員「小説」を書いていたから自ずとそうなっただけで、本当は「創作」が大の苦手。年1回の文化祭に合わせて、なんだかどこかで読んだことのあるような適当な話を作って凌いでいました。
しかし「書く」という行為自体はまだ好きでした。やがて大学へ進学しますが、大学では文学部に入りました。
この頃になってくるとブログはもうすっかり飽きてしまい、今のように年に数回の更新に留まるのですが、他方、「書く」ことは好むと好まざるとにかかわらず続いていきます。だって文学部だもん。レポートなり、ゼミのレジュメなり。就活の履歴書もそうですね。結局受けなかった企業も含めて、自己PRを何枚書いたことか。
そして、小学校の「作文」の授業以来、連綿と続いてきた「書く」という行為の終着点が「卒業論文」だったのでしょう。
さて、無事に大学を卒業して就職したわけですが、今の仕事はほとんど「書く」ことがありません。「読む」ことはあっても「書く」ことはない。せいぜい、仕事終わりに日報を書くくらいです。日報といっても、もともとクリエイティブな仕事ではなく、どちらかと言えばライン作業に近い部分があり(と言ったら叱られそうですが)、特筆すべきことが起こらないのが所定なので、書くことも毎日同じ。
「本日も無事故で業務を完遂した。」
以上。完。そば湯先生の明日の仕事にご期待ください。明日も無事故で業務を完遂します。
そんな仕事を1年半続けてきて、ふと気づきました。
最近、全然「文章」を書いてねぇな……。
学生時代はあれほど「書いていた」のに、社会人になったらそんな時間も機会もない。1日数回、140字以内の短文を発信することはほぼ毎日欠かさずやっていますが、自分の考えたことを、まとまった文章にして、誰かに伝える目的で書く、ということをほとんどやっていない。
これ、ちょっとまずくないか。
言いすぎかもしれませんが、140字以内の投稿に慣れると、自分の考え方まで140字の型にはめられて制限されてしまうような、そんな気がするのです。「草」と1文字書くのは簡単です、しかし「ここがこうで、こういうところが面白かった」と、ある程度の量を、それも他人が理解できるように書くのは難しい。技術がいることです。
ところが、かの青い鳥はその技術を前にこう言い放つのです。「君の話は長すぎるから、140字以内でまとめて」と。
もちろん、文章を簡潔にまとめるのも技術がいることです。それはまた別もの。140字という制約の中で表現できる内容には限りがあり、連投することで長文の投稿も可能ではありますが、本来はこうしたブログなどのフォーマットが担うべきものでしょう。自分もたまにスレッドを長々とくっつけて連投してしまいますが、逆に他人がTwitterであまりにも長話をしているとウンザリすることもあります。
話が脱線しそうなのでまとめますと、まとまった量の文章を書くという行為がご無沙汰になり、SNS等の短文投稿ばかりに慣れた結果、自分の思考や、それをアウトプットするための表現もまたインスタントなものになってしまいそう(と言うか、既になっていそう)だな、と今更ながら危惧するようになったのです。
身体も鍛えなければ衰えますし、漢字も読んだり書いたりしないとパッと出てこない、なんて経験はありませんか。同様に、「考えを論理的にまとめて、言葉(文章)として表現する」こともまた、続けないと衰えるでしょう。
はてなブログのトップページを開くと、左上にこのようなキャッチコピーが書かれています。
「思いは言葉に。」
Twitterで「草」と書くことをやめるつもりもありませんが、それはそれとして、「書く」という行為の大切さにも立ち返ってみようかな、と思った24歳の秋なのでした。